宗教的な視点から見た内因死と外因死

「自死・自殺に向き合う僧侶の会」に参加する僧侶小川有閑さんには、外因死の一つである自死について、宗教者としてどのように捉えるのか、お話を聞いた。聞き手は川崎市精神保健福祉センター 所長で一般社団法人全国精神保健福祉連絡協議会会長である竹島正さん。

第三世蓮宝寺(浄土宗)住職
小川有閑さんに聞く
聞き手 竹島正

僧侶が出会う自死・自殺

竹島 小川さんは「自死・自殺に向き合う僧侶の会」に参加されていますが、僧侶として遺族に向き合う時、病死の方(内因死)とそれ以外の理由で亡くなった方(外因死)では違いはありますか。

小川 これまで私が出会った外因死の方は自死がほとんどです。その上で、外因死、内因死で心構えは同じにと思っています。仏教では「どんな亡くなり方でも成仏する。亡くなり方によって差別はない」と考えます。
ただし、遺族の心理状況は違うので、その点は配慮しますね。

竹島 僧侶は死因がわかるのですか。

小川 遺族から伝えられる場合もあれば、葬儀社から伝えられる場合もあるでしょう。葬儀社からの場合、「命は大事だ」というような、遺族に負担になる法話をしないよう、リスク回避で、あらかじめ伝えると聞きました。

竹島  自殺の場合、戒名に自殺に関係する文字が使われることもあるという話は、俗説ですか。

小川 今はほぼ無いと思いますが、そうしたことがあったと遺族から直接聞いたことはあります。僧侶の中には、自死を多少、ネガティブに捉え、葬儀で、皆で祈らないといけないと話す場合もあるそうです。しかしそこに仏教としての根拠はないと思います。
私が自死の方の葬儀をする時は、まず、遺族が苦しくない空間を作ろうと考えます。泣き顔を人に見られるだけで苦痛という方もいらっしゃいますので、遺族席の角度に配慮するなどです。
お話はシンプルに、伝えたいことは一つに絞ります。自死直後の混乱した遺族には、意味のわからない話が、延々と続くのは苦痛でしかないと聞いたことがあります。
そうした配慮は、どんな亡くなり方でも必要です。結果的に丁寧な葬儀になっていると思います。

亡くなった人への宗教的感受性を満たす

竹島  「自死・自殺に向き合う僧侶の会」は長く活動していますね。

小川 自死問題をなんとかしたいという思いで超宗派で集まり、平成19年5月31日に設立されました。自死問題の啓発活動、相談活動、分かち合いのつどいの開催、自死者追悼法要などを行って来ました。
追悼法要は毎年12月に行われ、150~160人の遺族が集まります。自死遺族がそれだけ集まることは、日本全国で例がないそうです。今は各宗派で有志の僧侶たちが法要をおこなうようになり、輪が広がっています。また、毎月1回、自死遺族の分かち合いの会を開いていますが、こちらは30人から40人ほどです。追悼法要も分かち合いもリピーターの方が多くいらっしゃいます。
そうした遺族と触れ合った経験から、死後の救いを説くことは大切と感じます。 多くの遺族は「苦しんで亡くなったあの人は、今、何を思っているのだろう。今も苦しんでいるのではないか」と思っています。突然、断絶が来てしまい、繋がりを求めている方もいます。
法要では毎回アンケートを書いてもらうのですが、「法要で(亡くなった人に)会えた気がしました」「年に一回亡くなった子どもと会える気がする」というものが少なくありません。亡くなった人とのつながりを求め、その幸せを願う宗教的な感性を、儀式や法話を通じて感じるのだと思います。
自死遺族は自責の思いが強い傾向にありますが、法要の前と帰る時とでは表情が違うようにも見えますから、多少は心が和らぐのかなと感じます。

竹島  (自死に関する相談・質問の)手紙相談はどれくらい届くのですか。

小川 先週(2018年1月末)届いた手紙は8460通目でした。

竹島 返事は肉筆で書くのですね。

小川 そうです。1人が書いて、2人がチェックして、それを清書します。長さはA4の用紙に1枚程度。相手の文面より長くならないように気をつけます。便箋にびっしり21枚書かれた手紙が届いたこともありました。
手紙という特性から、女性が多いですね。家族には内緒で手紙を出している人がほとんどです。働き盛りの男性は手紙のやり取りが難しい。ポストを最初に開けるわけではないので。

竹島 家族同士で気持ちの共有ができないのでしょうか。

小川 家族や親族でこじれると、赤の他人同士よりも状況が悪くなる場合も少なくありません。

仏教とグリーフ

竹島 仏教には、グリーフ(喪失による深い悲しみ・悲嘆)に当たる言葉がありますか。

小川 愛別離苦があります。愛する人との別れです。生きてる上で避けられない苦しみの一つです。
しかし、私は、お葬式ではこれは最後のお別れではないと話します。駅や空港に見送りに行った時に、明確な約束はないけれど、じゃ、またねと言うように、私たちがあっちに行くまでのお別れでしかない。
自分が死ぬことを考えれば、死は冷たいものではないのではないでしょうか。

竹島 その人が亡くなったことを納得したいという気持ちがあるのかもしれませんね。親の葬儀でも、斎場で、「立派な喉仏です」と言ってもらうと安心するという心の動きがあります。斎場の職員など、葬儀関係者はいろいろなグリーフの知識をもっていますね。仕事の中でそうした言葉や態度を身につけてきたのだと思います。

小川 葬儀そのものがが、死を受け入れるステップなのだと思います。
葬儀には、3つの意味があるといわれます。遺体の処理、亡くなった人の魂の処理、遺族や残された人の心への対応です。遺体の処理も魂の処理もどのような亡くなり方をしても一緒です。でも、残された人の心の側面は、自死の場合、デリケートに考えなければなりません。僧侶の言葉や振る舞いで不必要な傷を負います。基本は差別なく全てのお葬式を精一杯頑張ればいいと思っています。

竹島 自死について取り組みを始めるときに、違和感はありませんでしたか。

小川 うーん。私自身僧侶としての満足感を求めていたと思うんですね。自己満足というか。会社を辞めて大学院に入り、博士課程に行きました。その頃、自死予防の活動をしている人に調査対象として会って、誘われて。苦しんでいる人の力になることは、僧侶にふさわしい活動だと思ったのだと思います。自死への理解も低かった。色々な要因の中で追い込まれているということも知りませんでした。「癒したい人の卑しさ」があったと思いますね。今もあるにしても、それがあることを認めた上で活動しないと独善になると思います。

自死するほど苦しんだ人は救われる

竹島 「自死・自殺に向き合う僧侶の会」に参加することで、小川さん自身が変わったことはありますか。

小川 自死者がまだ3万人を超えていた頃、会員の僧侶が10人くらいの時に、活動が新聞で紹介されて一度に100通もの手紙が来た。寝る暇も惜しんで手紙を書いて、最大4カ月待ってもらった。そこまでやっても、亡くなる方は亡くなる。自分の限界を感じました。
その時、皆、仏様のところに行っているんだよなと思った。幸せになっているのだと。
私の寺は浄土宗なので、亡くなった時、仏様の穏やかな世界に行けるという考え方なんですね。この世は生きづらいので、自死してしまうこともあると考えます。
相談を受けて、生きていればいいことあるなんて絶対に言えない。そういう方が自ら命をたったときは、安らかになって欲しいと祈るだけです。
人間の一生は息が止まるまでではなくて、その先がある。そんな世界観で、自死はいけないとは思わなくなった。自死をするほど苦しんだ人は絶対救われる。そこまで苦しんだ人を救わなければ仏様ではないと思う。
自死したいという人がいたら、止めるのが宗教者。自死をしてしまったら、成仏しているというのが宗教者だと思う。仏教者には、一般社会とは異なる物差しがあると思います。
ただ、一般的には、僧侶でも外因死には怖さを感じている人が多いですね。自死遺族にどう接していいかわからず、腫れ物に触るように対応してしまうこともある。追悼法要を手伝ってと言っても腰が引けてしまう人もいます。
仏教の教えにはドライなところがあり、死はあくまでも一つの生物の死です。どんな死にも優劣はないのですが、自死、事故、殺人などを特別な死と考え過ぎてしまっているのではないかと思います。どんな死でも優劣をつける必要はないという気持ちを持っていると、遺族に対しても構えすぎずにすむように思います。

安心して悩める社会を作る

竹島  僧侶は医学や心理学の考え方を学ぶ場はあるのでしょうか。

小川 ないですね。現場に出ないとわからないのではないでしょうか。僧侶になるための基礎的な学びのときに、死別理由ごとに遺族にはどのような気持ちの違いがあるかなど、グリーフについて勉強できるといいと思います。

竹島 僧侶は、元々死だけに関わって来たのですか。

小川 基本的には生きている苦しみがメインです。死に関わるようになるのは、江戸期以降でしょう。僧侶の会でも追悼法要や手紙相談のときに、必要に応じて仏教の教えのエッセンスを伝えるようにしています。そうした仏教の考え方をお葬儀を入り口に、広げていけばいいのかなとも考えています。

竹島 今、自死に関してどのように思われますか。

小川 否定的な考え方はなくなりました。自死の善悪をいうことは無意味だと思います。現にそこにあるものですから。死に方の優劣、価値判断をしても仕方がないと思います。

竹島 私も亡くなり方が自殺だとしても、その人の人生は否定されてはいけないと思うんですね。自殺だったとしても、一生懸命生きていた。亡くなり方ひとつでその人の価値を決めるのはおかしなことだと思うんです。
もともと、自死とそれ以外の死の境目は難しいですね。末期ガンの人が、紐を首に掛けたら自死、よろけて落ちたら事故死、それがなければガンとして亡くなる。
色々な人が色々な形で亡くなる。それまでの生は別にあるわけですよね。そういう風に考えるのが自然だと思う。もちろん自殺対策は必要ですが、特別な死として扱いすぎると、スティグマを高めてしまうと思います。

小川 自死を減らすだけでしたら、自死の危険のある人を紐で縛っておけば減らせるかもしれない。それで幸せかといえばそうではない。
私たちの会のスローガンは「安心して悩むことができる社会」を作るということなんですね。悩みや苦しみは必ずある。悩み苦しみがない社会は人間味がない社会のような気がします。それでも安心して悩める、安心して苦しめる。それが仏教の一つの在り方かなと。自殺対策とはそういうことかなと感じます。
また、自死を止められなかったことをそこまで責めなくてもいい。自死を非難することもネガティブに捉えることも傲慢だと思います。今のこの社会がいいとは思っていません。ただ、道徳と宗教は違う。宗教は世間を壊すくらいの価値観を提示することもある。この世にしがみつかなくてもいいじゃないかということがあります。

竹島 1998年以降、日本人は自殺という言葉をシャワーのように浴びました。死にたい、苦しいということを言えるようになったのかもしれないけれど、逆に言えば自死という手段があることを広く知らせてしまった。それがいいことかどうか。
自殺幇助や、尊厳死など、死のあり方についてあらためて考えなければいけない時代を我々は生きています。それを見ないで自殺対策を語れるのか、問わなければいけない時代が、目前まで来ていると感じています。


小川有閑(おがわ ゆうかん)第三世蓮宝寺住職
早稲田大学政治経済学部卒業後広告会社勤務。東京大学大学院博士課程満期退学。現在に至る。平成28年3月7日に浄土宗から住職認証。一般社団法人The Egg Tree House理事、大正大学地域構想研究所・BSR推進センター主幹研究員、浄土宗総合研究所研究スタッフ、自死予防・遺族支援のボランティア

聞き手
竹島正(たけしま ただし)
川崎市精神保健福祉センター 所長 / 国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 客員研究員 一般社団法人全国精神保健福祉連絡協議会会長